新選組の弓名人
今回ご紹介する安藤早太郎氏は、東大寺の通し矢において天下一の記録を残しています(1842年、11,500本中8,685本を射通す)。この方は、新選組隊士として副長助勤を努め、池田屋事件には近藤勇とともに関わっていました。安藤早太郎氏については、Wikipediaにも記事が掲載されています(https://ja.wikipedia.org/wiki/安藤早太郎)。
安藤早太郎
・生没年:1821年〜1864年(池田屋事件での負傷が元で逝去)
・流派など:竹林派(江戸竹林※1)、応身流(※2)
安藤氏は、挙母藩御典医の安藤宣全の長男として1842年に生を受けました。父親が江戸屋敷詰だったため、早太郎氏も元服までは江戸に住んでいました。江戸在住時には、戸田市郎兵衛に竹林派の手ほどきを受け、竹林派射術総目録を受けるまでに上達したようです。その後は挙母藩に帰り、高木応心斎(高木尚三郎正朝)に応身流の指導を受けました。1842年4月21日には、挙母藩藩主(内藤政優)の命により東大寺大仏殿西回廊において通し矢を行い、総矢数11,500中8,685本を射通すことに成功しました。これは当時の天下一の記録として、「東大寺通し矢絵巻」にもその様子が残されています。この「東大寺通し矢絵巻」は、名古屋の松波佐平弓具点に保管されています(http://www.matsunamisahei.jp/emaki/)。
※1 安藤早太郎氏の江戸における弓の師の戸田市郎兵衛氏は、渡邉寛氏の江戸竹林の流れになります。渡辺氏の師は、尾州竹林派の星野勘左衛門氏です。
※2 応身流の祖の高木尚三郎正朝氏(応身斎)は、紀州出身で延岡藩や挙母藩などにおいて弓の指導に当たっていました。堂前が得意だったようです。天保8年(1837年)に応身流を興しました。著書として「弓張月(射学弓張月)、1841年発行」などが知られています。
【参考文献】弓道人名大辞典、弓道講座 松波佐平弓具店HP 他
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